銀座の黒幕・東声会とは?町井久之の伝説と東亜会に至る現在地
終戦直後の混乱期、焦土と化した東京・銀座の街を力と知謀で制圧し、瞬く間に一大勢力を築き上げた組織が「東声会(とうせいかい)」です。警察資料や戦後裏面史にその名を深く刻むこの団体は、単なる暴力団の枠組みにとどまらず、政財界のフィクサーや昭和の英雄たちと複雑に交錯しながら日本の表と裏を揺るがし続けました。
創設者である町井久之が放った圧倒的な存在感、日本プロレス界の父・力道山との抜き差しならない蜜月、そして日本最大の指定暴力団・山口組との衝突と和解――。激動の昭和を駆け抜けた東声会は、警察の頂上作戦を経て「東亜友愛事業組合」、そして現在の「東亜会」へと看板を変えながら存続してきました。かつて銀座の夜に君臨した組織の実態と、最新の情勢を徹底検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:東声会は在日朝鮮人連盟に対抗する愚連隊を源流とし、「銀座の虎」と呼ばれた町井久之が1957年に結成した武闘派・企業舎弟組織である。
- 要点2:政商・児玉誉士夫の後援を受け、山口組の東進を押しとどめて兄弟分の杯を交わす一方、1966年の警察による頂上作戦で解散へ追い込まれた。
- 要点3:東亜友愛事業組合を経て現在は指定暴力団「東亜会」として存続するものの、暴対法や構成員の高齢化により勢力は数十人規模にまで激減している。
【創設の原点】「銀座の虎」町井久之の経歴と東声会の誕生
東声会の歴史を紐解く上で、創設者である町井久之(本名:鄭建永=チョン・ゴニョン)の存在を避けて通ることはできません。1923年に東京で生まれた町井は、戦後の治安崩壊期において頭角を現しました。当時、戦勝国民的立場を主張した在日本朝鮮人連盟(朝連)の一部急進派が各所で警察権力と衝突する中、町井は反共産主義を掲げる青年私設自衛隊を組織。これが後の東声会の母体となります。
町井の戦略は、単なる街頭の暴力にとどまりませんでした。盛り場としての復興が急速に進んでいた銀座に着目し、キャバレー、クラブ、飲食店を用心棒代名目で傘下に収め、治安維持を名目に実効支配を確立していったのです。鋭い眼光と妥協なき腕力、そして洗練された身なりから、いつしか町井は「銀座の虎」と畏怖されるようになりました。
そして1957年、町井は約1,500人規模の配下を結集し、正式に「東声会」を結成します。組織力と資金力を兼ね備えた東声会は、銀座の権益を完全に掌握し、同地区を訪れる政財界人や興行関係者にとって無視できない巨大な壁として君臨することになりました。
【政財界とマット界】児玉誉士夫との癒着と力道山を巡る知られざる絆
東声会が他の暴力団組織と一線を画していた最大の要因は、右翼の巨頭・児玉誉士夫との強固な結びつきと、日韓の国交正常化を巡る地下外交ルートにありました。児玉は町井の組織力を「反共運動の実動部隊」として高く評価し、物心両面で支援を与えます。このパイプによって、東声会は単なる盛り場の縄張り争いを超え、国家レベルの利権や国際政治の裏舞台に深く関与する特異なポジションを手に入れました。
さらに世間の耳目を集めたのが、国民的スーパースターであった力道山との深い親交です。同じ朝鮮半島にルーツを持つ2人は、公私にわたり義兄弟のような間柄でした。力道山が推進した日本プロレスの興行警備やトラブル処理を町井率いる東声会が引き受け、その見返りとして町井は興行利権や飲食ビジネスの拡大を果たしました。
1963年12月、力道山が赤坂のナイトクラブで住吉一家系組員に刺されて急逝した際、真っ先に現場へ駆けつけ、報復の連鎖を抑え込みつつ事態の収拾に動いたのも町井でした。両者の絆は、昭和の興行界とアンダーグラウンドが渾然一体となっていた時代を象徴するエピソードとして今も語り継がれています。
【血の抗争の裏側】三代目山口組との激突危機と劇的な「手打ち」
1960年代初頭、神戸を本拠地とする三代目山口組(田岡一雄組長)は、全国制覇を掲げて東京進出を本格化させました。山口組の先兵として送り込まれた武闘派「柳川組」が首都圏に拠点を築くなかで、銀座を絶対不可侵の防波堤とする東声会との武力衝突は秒読みの段階に突入します。
血で血を洗う大抗争が目前に迫った1963年、仲介に動いたのが児玉誉士夫でした。児玉の強い働きかけにより、町井久之と田岡一雄によるトップ会談が実現。激しい緊張感のなかで進められた交渉の結果、両者は矛を収め、五分の親戚付き合いを結ぶことで劇的な「手打ち」に至ります。
この歴史的和解によって、山口組は東声会の顔を立てる形で銀座への強引な力攻めを回避し、東声会もまた日本最大の組織と決定的な破滅戦争を演じる危機を脱しました。妥協を知らない武闘派同士をまとめ上げたこの調停劇は、児玉のフィクサーとしての威名と、町井の老獪な政治力を世に知らしめる結果となりました。
【組織解散の真相】警察の「第一次頂上作戦」から東亜友愛事業組合へ
絶頂期を誇った東声会に最大の試練が訪れたのは、1964年の東京オリンピックを契機とする警察当局の姿勢激変でした。社会の健全化を掲げた警視庁および警察庁は、全国の主要暴力団を壊滅させるべく「第一次頂上作戦」を発動。暴力団と企業舎弟の両面を持つ東声会は、最重点標的の一つとして徹底的な取締りを受けます。
町井をはじめとする幹部が次々と逮捕され、組織網が寸断されるなか、町井は組織の防衛と生き残りを懸けて決断を下します。1966年9月、東声会は公式に解散を宣言しました。警察の壊滅攻撃を前に、看板を下ろすことで組織の全面壊滅を防ぐ戦術的撤退でした。
しかし、水面下に潜ったネットワークが消滅したわけではありません。解散から3年後の1969年、町井は残存勢力を再編し、合法企業・親睦団体を装った「東亜友愛事業組合」を結成します。総裁に町井が就任し、理事長に平野藤夫(高山登化)を据えたこの組織こそが、現代に続く東亜会の実質的な再スタートでした。町井自身はその後、赤坂の一等地に巨大ビル「TSK・CCC(東亜相互企業)」を建設し、実業家・黒幕としての道を突き進むことになります。
| 時代・組織名 | 主な代表者(歴代会長) | 組織の規模・実態 | 歴史的位置づけ・警察の評価 |
|---|---|---|---|
| 東声会時代 (1957年〜1966年) | 初代会長:町井久之 | 公称1,500人規模 (銀座を中心に強大な武闘力を保持) | 第一次頂上作戦の標的となり解散。愚連隊から地下帝国を築いた全盛期。 |
| 東亜友愛事業組合時代 (1969年〜1980年代) | 初代総裁:町井久之 理事長:平野藤夫 | 数百人規模 (企業舎弟・政治結社的な性格を強調) | 表向きの合法化を図りつつ、地下勢力として山口組等と親戚関係を継続。 |
| 東亜特別地域・東亜会時代 (1990年代〜2010年代) | 二代目:平野藤夫 三代目:松山政雄 四代目:金海芳雄 | 100人〜200人規模 (東京都公安委員会により指定暴力団化) | 1993年に暴力団対策法に基づく指定を受け、完全な統制対象へ移行。 |
| 現代の東亜会 (2020年代〜現在) | 歴代執行部体制を継承 | 構成員・準構成員約50人前後 (警察庁統計・勢力激減期) | 銀座の伝統的権益はほぼ喪失。構成員の高齢化と資金難が深刻化。 |
【現在地を直撃】東声会から東亜会へ|最新動向と激減する勢力の実態
暴力団対策法が幾度も改正され、各自治体で暴力団排除条例が厳格に運用される現在、東声会の系譜を継ぐ「東亜会」の置かれた状況は極めて厳しいものとなっています。警察庁が公表している組織犯罪情勢のデータによれば、東亜会の構成員数は最盛期の数十分の一にまで落ち込み、2020年代半ばの現在では構成員および準構成員を合わせても数十人規模に留まっています。
現場の取材や警察関係者の証言を総合すると、東亜会のかつての資金源であった銀座のクラブ街における用心棒代やみかじめ料は、街全体の監視カメラ網の整備と防犯意識の向上により完全に遮断されました。大手飲食チェーンや外資系高級ブランドが立ち並ぶ現在の銀座において、同会が誇った「銀座の縄張り」は実質的に過去の遺物と化しています。
現在の東亜会は、六代目山口組や住吉会といった巨大組織の狭間に位置する極小の指定暴力団として、生き残りを図る執行部体制を維持していますが、構成員の平均年齢は60代後半を超えています。後継者不足と資金獲得活動の封殺により、組織の求心力低下は否定できない事実です。
【俗説を解体】ネットで囁かれる「銀座利権の神話」と歴史的真実
インターネット上の掲示板やSNSでは、「今なお銀座の地下水脈は東声会の残党が牛耳っている」「有名クラブのオーナーはすべて東亜会の意向に従っている」といった扇情的な都市伝説が散見されます。しかし、これらの噂は昭和後期の残像が肥大化した明らかな誤解です。
現代の銀座における商業ビルや高級クラブの運営は、大半が大手不動産デベロッパーやコンプライアンスを徹底する法人企業によって管理されています。警察当局による徹底的な「暴排チェック」が行き届いている現代において、指定暴力団が公然と介在できる余地は皆無に等しいのが実情です。
東声会および町井久之が残した足跡を正しく評価するならば、それは「戦後の法と秩序が未整備だった時代に、境界線上の利権を暴力と知性で吸い上げた過渡期の遺産」と捉えるべきでしょう。光と影が交錯した戦後史の特異点として東声会を理解することは極めて重要ですが、現代のビジネスシーンにおける過剰な実力行使神話を信じ込むことは、現実の暴力団衰退の潮流を見誤る原因となります。
【東声会】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:東声会と現在の東亜会は法的に同一の組織ですか?
A1:歴史的・実質的には同一の系譜です。1966年に東声会が解散した後、1969年に結成された「東亜友愛事業組合」が改称を重ねて現在の「東亜会」となりました。東京都公安委員会からは指定暴力団として指定されており、警察の監視対象として継続して位置づけられています。
Q2:町井久之が建設した「TSK・CCC」とはどのような施設でしたか?
A2:1973年、港区六本木に完成した「東亜相互企業」の本部ビル(東亜国内航空ビル隣接地)です。高級クラブ、サウナ、レストラン、オフィスなどが一体となった東洋最大級の総合社交殿堂であり、政財界人や芸能人、海外要人が出入りする昭和フィクサー政治の象徴的舞台でした。バブル崩壊後に解体され、現在は別の商業開発が行われています。
Q3:なぜ山口組と流血抗争にならずに「手打ち」が成立したのですか?
A3:双方に顔が利く大物フィクサー・児玉誉士夫が強固な調停役として介入したためです。また、当時の東声会は警察の厳しい視線に晒されており、山口組も警視庁の警戒下で全面戦争を起こすリスクを避けたかったという、双方の現実的な利害の一致が早期和解の背景にありました。
まとめ:戦後裏面史の巨頭・東声会が現代社会に残した爪痕
終戦直後の廃墟から立ち上がり、暴力と知謀をもって銀座の頂点に登り詰めた東声会。町井久之という稀代の怪物が率いたこの組織は、力道山との共闘や児玉誉士夫との連動、そして山口組との鍔迫り合いを通じて、昭和という激動の時代の裏面史を鮮烈に彩りました。
しかし、法秩序の整備と徹底した暴力団排除の流れの中で、その強大な権勢は解体され、後継組織である東亜会は極めて小規模な存在へと縮小を余儀なくされています。東声会が歩んだ栄枯盛衰の軌跡は、暴力と非合法なコネクションが社会を動かした時代の終焉を雄弁に物語っています。 (出典: 東 声 会(Yahoo!ニュース))